Childhood's End

映画と本の感想など

shape of voice

メモ

 

・男の子が身辺整理をして、母親らしき人物にお金を返す。その後橋からの入水自殺を試みるが、コンビニで売ってるようなしょぼい花火の音で我に返って自殺をやめる冒頭。運動会のマラソンのスタートの時こういう音鳴る=物語の始まり。

 

・女の子をいじめた男の子はいじめられる側に回りようやく自分が何をしていたのかを知り、。いじめのシーンは本当に嫌だなぁと思ったけど、そこまでエグくはなく案外あっさりと終わらせる。男の子の母親が補聴器の弁償で200万円くらい払ってるのは妙にリアルだった。

 

・男の子は昔いじめていた女の子ともう一度出会って贖罪?を行おうとする。昔自分が池に放り投げた女の子の持ち物を返すことがきっかけ。はっきり言って気持ちはよくない。自己満足かもしれない。それは映画の登場人物もそう名言していて、確かにそういう面もある。そういったややもすれば欺瞞、偽善、自己満足のマスターベーションで片付けられることでも、もしそれが男の子が生きる上でどうしても必要なことであればやるべきだと思う。それで女の子が傷つくかどうかは本人たちの問題で、回りが決めることじゃない。

 

・どん詰まり・固定された人間関係(問題関係)に突入した場合それを突破するには、何がいいのだろうか。外部から新しい人が来る、誰かが鮮やかな解決策を提示するとかがパット思いつく。これが現実であれば、仲違いをしてしまったらそのまま放置して…自然と時が解決するのを待つか。。。それでは物語にならない。

では、どうするのか?それは今まであった問題がどうでもよくなるような、破滅的な事故もしくは苛烈な事件が起こらないといけない。そうでない限り風穴が開かないのは、こういった映画の構造的な欠陥なのかもしれない。

 

・その破滅的な事件は女の子の自殺未遂が引き起こした、男の子の大怪我である。生死の境を彷徨う男の子に対して周囲の人達の彼を見る目は変わった。いじめをしていた女の子を命を賭して助けた。贖罪、禊は済んだと。正直ここまでしないと赦されないのか?と。ここまでにならないためにはどうしたらよかったの?と思わずにはいられない。 

・どんどんダメになっていったよねあの2人。2回くらい突破するチャンスがあったのに。1回目は小学校時代に女の子が男の子と喧嘩した時、ここで男の子がクラス全員に謝って禊をすべきか、女の子と仲直り(のキスかそれに準ずること)をするべきだった。もう、禊をするかキスくらいでしょ、あそこは。ただ、年齢の問題があったのでダメだった。2回目は女の子が好きって言う場面。女の子は発声に難があるので男は月と聞き間違えてしまう。そこで女の子がぶっこめばお互いの関係性が進展して、別のストーリーラインが現れたのに、そのチャンスが潰れたのはもう物語上の要請でしかない。

 

・最後に男の子が「生きるのを手伝って欲しい」と女の子に想いを伝えるシーンは大変よいと思うのだが、何故意識不明の男の子がいきなり目を覚まして、辛くなってしまって思い出の場所で泣いてる女の子に逢うのか。偶然が過ぎる。最後に奇跡をもってきてしまうと、彼等2人の積み上げた集大成的なやり取りが薄っぺらくなる。これからも彼等は奇跡が無いと何も解決できないのでは?と不安になるのは僕だけだろうか。考え過ぎかね。